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宝物紹介
−長谷川等伯筆佛涅槃図−
 本法寺に現存する長谷川等伯筆の「佛涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つで、総堅約10メートル、総横6メートル(本地堅793.9センチ、同横532.6センチ)に及ぶ紙本濃彩画である。すなわち、その法量は、東福寺の吉山明兆筆の涅槃図(1408年)には、わずかに及ばないが、大徳寺の狩野松榮筆の涅槃図(1563年)よりは、はるかに大きく、その卓越せる技法の点では日本一の大涅槃図と称してよく、唯一の重要文化財指定を受けている。
 本法寺涅槃図は、慶長4年(1599)、等伯61歳の時の作品で、巨大な檜材の箱に入れて保存されたが、箱蓋の内側に本法寺十世日通上人が、慶長4年4月26日に長谷川等伯(1539−1610年)によって奉献されたことを銘記している。
 また、大涅槃図の裏書がやはり日通上人によって記され、上下五段にわたって、信仰上の、あるいは血縁的な先師の名が書きつけられている。
 因みに第一段には、教祖釈迦牟尼如来、第二段には、宗祖日蓮大聖人と中山法華経寺先師、第三段には、中心に日親聖人と両わきに本法寺歴代上人、第四段には、現董日通上人と上人の両親、第五段の中心には、上洛の当初に寄宿した本法寺教行院住持日受上人の名と、その両脇には等伯の近親者の戒名、すなわち、等伯の両親、祖父母、先妻と後妻の名、息子の名と等伯自身の名と逆修法名日妙を記している。
 要するに、この大涅槃図は、これらの人々の菩提に資するために大絵師長谷川等伯によって描かれ奉納されたのである。
 もともと長谷川家は、日蓮宗の信者で、等伯は、つとに能登地方七尾の絵師として知られたが、1571年、父道浄の死後、上洛して本法寺塔頭教行院に寄宿していた。
 叡昌山本法寺は、鍋冠上人とよばれて有名な久遠成院日親上人によって創建されたが、寺は、初めは綾小路にあり、次に堀川一条に転じ、さらに天正15年(1587)に現在の地に移った。それは、秀吉が聚楽第を築造するにあたり諸侯の邸宅を構えるために、寺町の移転を命じたからであった。当時の本法寺住職日通上人(1551−1608年)は、本法寺の復興事業を着々と進め、因みにこの移転工事を監督したのが本阿弥光悦の父光二であったと言われる。
 すなわち、本堂は、ようやく慶長4年(1599)に至って竣工し、客殿、仁王門は少しく遅れて慶長10年(1605)に建立され、また多宝塔は上人の寂後、元和9年(1623)に造営されるという状況であった。
 さて、上洛した等伯は、泉州堺の油屋常金の子であった現住日通上人と特に親交を結び、本法寺復興には上人を援助し、大いに貢献するところがあった。等伯の絵画に関する見解を日通上人が筆録したものが、『等伯画説』として知られ、美術史の貴重な資料として本法寺に伝存している。
 通師の代に再建された本法寺の本堂の天井には等伯筆の「龍図」もあったと伝えられ、大涅槃図の掛け得る大本堂であったが、天明8年(1788)の洛中の大火にかかって、同寺の諸建築は殆ど焼失したと言われる。その中にあって、幸い蔵庫一棟が焼失を免れ残されたのが、上記の「佛涅槃図」を含む本法寺什宝類であった。
 今、この貴重な大涅槃図をまのあたりにして思いをいたす時、嘗つての大本堂に掛けられた400年前の感激を新たにする。阿難尊者が、釈尊の沈辺に悲泣し、天人阿修羅をはじめ、生きとし生けるものどもの、声をあげて泣き叫ぶありさまが、天地を震わすのを感ずる。その中にあって、絵図下方に二匹のコリー犬が何気なく描かれているのは、厳粛なる光景の中にも、一時の救いを覚える。等伯の巧まざるユーモアの中に、絵師としての自信あふれる余裕が感ぜられる。それは、日通上人の生地泉州堺で見た南蛮人の連れ歩くコリー犬であったに違いない。