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本法寺について
本法寺沿革
 叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(1407−88)によって築かれた日蓮宗の本山です。開創の時期や場所については諸説あって、明らかではありませが、永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享十二年(1440)に、日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(1455−57)に四条高倉で再建しました。
 寛正元年(1460)、2度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。その後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文五年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正十五年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。
 現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました。しかし、天明八年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。
本法寺ゆかりの芸術家たち
〇本阿弥光悦と巴の庭
 本阿弥光悦(1558−1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり、書・絵画・陶芸・漆芸などに優れた作品をのこしています。
 本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。
 爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしました。また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。昭和47年に修復され、昭和61年に国指定名勝となりました。
 「巴の庭」は書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さはおよそ200坪におよびます。三箇所の築山で巴紋を表現することから「三巴の庭」と呼ばれますが、巴の形は経年により解りづらくなっています。また、東南隅に石組の枯瀧が配され、縦縞紋様の青石によって流れ落ちる水を表現しています。いっぽう書院の縁側前には、半円を2つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、「日」「蓮」を表現しています。
巴の庭(初夏)
巴の庭(紅葉)
 光悦が制作に関わった美術作品も本法寺に数多くのこされ、その中でも最も有名なもののひとつに、『花唐草文螺鈿経箱』(重文)があります。経箱全体が漆で塗られ、螺鈿によって蓋の甲板中央に「法華経」の題字と、そこから伸びる花唐草文が表現されています。蓋側面が欠失していたことから、平成14年に修復がなされ、この修復では材を補わずに新しく制作された蓋の上に甲板をのせる方策がとられました。この経箱は平安時代前期に活躍した能書家で、和様書道の基礎を築いた小野道風が書いた『紫紙金字法華経』(重文)を納めるためにつくられたものです。
 光悦自身の書跡も評価は高く、「寛永の三筆」として賞されています。本法寺には日蓮聖人の遺文を書写した『如説修行抄』(重文)や『法華題目抄』(重文)をはじめ、和歌や書状など多岐にわたる内容の作品がのこされています。光悦の書は、優雅な筆致に唐様の肥痩の激しい書風を加えた流麗なもので、光悦流と呼ばれて珍重され、徳川幕府三代将軍家光に「天下の重宝」と言わしめるほどでした。
 本阿弥家の信仰形態が著された『本阿弥行状記』という資料によると、本阿弥家の人たちが日蓮宗の信仰を一種の精神的戒律として受け止め、貪欲な商業行為から離脱しようとする方向へ進んでいることが知られます。光悦の代になると一族が日蓮聖人の遺文を筆写し、さらに日蓮宗の教義の本質的な理解を目指すと同時に、徳川家康から洛北の鷹ヶ峰を拝領し、そこにいわゆる芸術村をつくって、法華信仰に基づく寂光土を建設しようとするまでになります。いわば光悦にとって日蓮宗は、光悦の人格を貫き、生活のみならず芸術をも支える基盤にあったと考えられています。

〇長谷川等伯と佛涅槃図
 長谷川等伯(1539−1610)も本法寺に縁の深い芸術家として知られています。等伯は能登国・現在の石川県七尾で生まれ、染色を生業とする長谷川家の養子となり、故郷の七尾を中心に絵師として活動していました。その後、養父母の死をきっかけに拠点を京都へと移し、生家の菩提寺の伝手で本法寺塔頭の教行院に住み、制作に取り組んでいきました。
 等伯が京都で活動をはじめたころの作品に、当時の本法寺貫首の肖像画『日堯上人像』(重文)があり、本法寺に所蔵されています。この作品は34歳の時のもので、「長谷川信春」の署名があり、等伯と信春が同一人物であることを裏付ける貴重な資料として知られています。その後、30代後半から40代の作品はのこされず、活動が明らかになるのは50代になってからです。
 天正17年(1589)、51歳の等伯は大徳寺の三門楼上壁画と三玄院障壁画を描き、都で名の知れた絵師となります。翌年には御所の障壁画制作を依頼されるまでになりましたが、当時の画壇に君臨する狩野派の妨害によって、苦汁を飲まされる結果となりました。しかし、その後は豊臣秀吉から祥雲寺障壁画の制作を依頼されるなど、画壇における地位を確固たるものにします。こうしてみると、等伯にとって充実した活動時期のようですが、背景には彼を取り巻く人たちとの死別が、大きな影響を及ぼしています。
 等伯が52歳の時、親交が深かった千利休が秀吉の命によって自刃し、さらに55歳の時には、制作の片腕として一番の信頼を寄せていた息子の久蔵を26歳という若さで失い、深い悲しみに見舞われました。そのような中で『松林図屏風』(国宝・東京国立博物館)など水墨画の優れた作品が描かれており、心の内を墨の濃淡で表現しているようです。
 その後、60代になると大作を次々と手がけ、そのひとつに本法寺の『佛涅槃図』(重文)があります。この作品は京都三大涅槃図のひとつに数えられ、描表具を含めると縦10m・横6mにも及ぶ大幅で、表具の裏には日蓮聖人以下の諸師や本法寺歴代住職、祖父母・養父母・子息久蔵などの供養銘が記されています。画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちが描かれ、自分をのこして先立った人々への哀悼と供養の想いが伝わってきます。また、自身と縁の深い本法寺関係者の肖像画『日通上人像』(重文)・『妙法尼像』(重文)などをのこし、高い評価をうけています。
大涅槃図部分
 さらに、本堂の天井画や客殿の障壁画を描きましたが、天明8年(1788)に京都を襲った大火によって焼失してしまいました。しかし、幸いにも経蔵と宝蔵がのこり、『佛涅槃図』をはじめとする等伯の作品が奇跡的に焼失をまぬがれ、今日にまで本法寺に格護され続けています。

※『佛涅槃図』…通常は原寸大の複製を展示しています。毎年3月14日〜4月15日の期間に真筆をご拝観いただけます。